貴妃物語   楊貴妃

 

 貴妃座浴の貴妃とは、楊貴妃から名付けたのですか?

とよく聞かれます。

楊貴妃からが全てではありませんが よもぎ蒸が中国から渡っ来たもで後宮の女性たち、楊貴妃も愛用していたようなところから、名付けました。

 

 

楊貴妃は今なら、時代のファッションメーカー、先駆者で  楊貴妃のファッション、愛用品に女たち羨望、まねていたようです。

 

 

 

楊貴妃は本名を揚玉環(ようぎょくかん)と言い、719年、蜀(四川省)の下級官吏の娘として生まれたが、父が早く亡くなったために、同じ下級官吏だったおじの手で育てられた。その類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入るや否や、17才にして玄宗皇帝の子、寿王(じゅおう)の妃として迎えられたのである。

 後宮には、当時、宮女の数は3千人いるとも言われ不自然と思えるほどの大勢の宮女がいたらしい。官吏の遺族が困窮した場合に、娘が宮女として召し抱えられる場合もあり、後宮に入るということは、決して美貌をかわれてということだけではなく、困窮した官吏の家庭を財政面から援助するという当時の社会的政策の一面もあったようである。しかし、いずれにしても、膨大な数の宮女の中から、皇帝の目に止まり、ただちに王妃の地位まで上りつめたという事実は、彼女の並外れた美しさを証明するものであったにちがいない。

   
 

 玄宗が56才の時、彼は最愛のきさきであった武恵妃(ぶけいひ)を40才で病気で亡くしてしまう。この時の玄宗の悲しみは計り知れず、がっくりと気を落とした玄宗に、宦官で彼のお気に入りの部下でもあった高力士(こうりきし)が、武恵妃にそっくりのお方がいるという触れ込みで彼女を紹介したのがそもそもの発端であるとされている。

 740年秋、長安郊外の温泉、華清池(かせいち)で、玄宗は初めて楊貴妃と出会い、たちまち彼女の魅力の虜となってしまった。その時、楊貴妃22才、玄宗とは34才もの年の隔たりがあった。もともと玄宗は芸術肌の人間だったので、何かと楊貴妃と気が合うことも多かったと思われる。彼が独自な音楽理論を持ち、音楽、舞踏の研修学校をつくった事実を見てもわかるが、一方、楊貴妃の方も、あらゆる楽器を自在にこなし、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その歌声も天下一品と言われるほどであったのである。

   
     この時代の中国美人たる基準は、ふっくらした姿態と切れ長の目に小さな口が特徴だったようだ。    
 無論、楊貴妃も例外ではなく、色白で太り気味だったようである。玄宗に「おまえなら少しぐらい寒くてもなんともあるまい」とからかわれて彼女が怒ったという話も伝えられているほどである。    
 この頃、海の向こうの日本では、色が白くて下膨れで、目が細くて、髪が長いのが美人の条件とされた時代であったが、何となく似ているようで面白い。    
  保養の地として知られる華清池    
  * 玄宗と楊貴妃の甘い日々 *    
 

 かくして、玄宗は息子の寿王から楊貴妃を召し上げることとなったが、そのまま自分の愛人にしてしまったのではいくら皇帝でも聞こえが悪すぎるので、玄宗は、ちょっとした小細工をしたのである。まず、彼女を女道士(道教の尼)にして、太真(たいしん)と名のらせたのである。しかし、それはあくまでカモフラージュで実際は宮廷内にかくまっていた。

   
 それから4年経過した745年の春3月。玄宗は彼女を公式に迎え入れ貴妃(きひ)の位を与えたのであった。貴妃とは後宮の宮女3千人の中での最高の位である。この時、楊貴妃27歳、玄宗62歳であった。長安には牡丹の花が咲き乱れていたが、玄宗は、宮廷楽団に自分の作曲した楊貴妃を迎えるためのオリジナル曲を奏させ得意満面だったと言われている。こうして約10年におよぶ甘美な寵愛の時間が始まるのである。しかし、それは同時に滅びへの序曲というべきものでもあった。    
     二人は、その後、温泉の湧き出る離宮、華清宮(かせいきゅう)に移り住んだ。    
   その暮らしは豪華絢爛というべきものだった。日々宴会や歌舞に明け暮れ、豪華な彫刻が施された大理石の浴室に入りびたりの毎日だったのである。この離宮こそ、玄宗と楊貴妃にとっては愛の臥所だった。    
   また、楊貴妃は自分専用の浴室で入浴した後、玄宗の前で踊りを披露したりすることが多かったという。  
  楊貴妃が愛用したと言われる海棠湯(かいどうゆ)    
   その時の楊貴妃の美しさ、立ち居振る舞い、それに対する玄宗の細かな愛情ぶりは、当時の詩人白楽天の長篇ロマン詩「長恨歌」に、まことしやかに描写されている。    
       瞳をめぐらせて、微笑むと、なまめかしさが溢れ出て、
        後宮の3千人の美女たちも色あせてしまうほど。
    きめこまかな肌に注がれる温泉の湯。天子さまにお目通りするときが来る。
     ふさふさとした豊かな髪、花のように美しい顔。
    天子さまは、貴妃のとりことなり、まつりごとをかえりみなくなる。
       貴妃はいつも天子さまのおそばにはべる毎日。
     春は春で、夜は夜で、いつも天子さまをひとりじめ。
    後宮の美女3千人に与えられる愛情は、貴妃一人だけにそそがれる。
      酒宴が終わり、ほおをほんのり赤くして、
        貴妃の姿は春の宵に溶けこんでいく・・・
   
   玄宗は、楊貴妃が望むことなら何でも叶えてやった。楊貴妃は、茘枝(れいし)という桜んぼより少し大きな甘い果物が大好きだったので、玄宗は、美味しくて新鮮なれいしを楊貴妃に食べさせてあげたいという一心から、何千キロも離れた広東地方から長安まで、れいしを3日間で運べという無理な命令を下したというエピソードもあった。もうもうたる砂煙をあげて走り去る早馬を見て、人々はそれを急ぎの公用だと信じ、まさかあの楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは考えた者は誰一人もいなかったのである。    
     
   愛する妃のためには、どれほど人民が苦しみ、公務が妨げられようとも、もはや玄宗は知ったことではなかった。    
   こうして、人々の玄宗への不信と不満が広がっていくのに反して、二人はますます恋にのめりこんでいった。    
 ようするに、玄宗にとっては民衆や政治など、もうどうでもよかったのである。    
  楊貴妃の好きだったれいし  
  * 民衆の不満が勃発 *    
   この時代のお決まりの習わしであったように、楊貴妃が玄宗の寵愛を受けて後宮で女性としては最高の位に上りつめたことと連動し、彼女の揚氏一族は、皆一躍、大出世をしていった。彼女には3人の姉がいたが、それぞれが夫人の称号を得て、宮中入りを果たし、いとこたちも要職に就いた。飲んだくれで風来坊に過ぎなかった揚国忠(ようこくちゅ)などは、宰相にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほどの大きな権力を有するようになっていった。出世を夢見る者たちは、後から後から、彼の元に殺到し、労せずして巨大な賄賂が彼のふところに転がり込んで来る仕組みであった。    

 しかし、こうした揚氏一族による権力の横暴も長くは続かなかった。彼とライバル関係であり、犬猿の仲だった安禄山が、ついに反乱を起こしたのである。それは、楊貴妃が玄宗の寵愛を受けはじめて10年後の755年の11月にぼっ発した。こうして、玄宗と楊貴妃のめくるめく甘い蜜のような恋愛にもピリオドが打たれる時がきたのである。

   
   事を起こした安禄山は、長年の玄宗の信頼から北方を守備する軍隊、節度使(せつどし)の長官にまでなっていた人物である。節度使とは北方異民族から、首都を防衛するためにつくられた軍団で、唐の全土に10個軍団展開していた。節度使を構成する傭兵は、金目当てに集まってきた者が多く、そのせいか忠誠心に欠け利害関係で動きやすいという側面も持っていた軍隊であった。    
   そのうち、笵陽(北京)方面の3つの軍団を自在に操れる地位にいた安禄山は、その3つの軍団を率いて反乱を起こすや否や、都を目指して南に進撃を開始した。その数実に15万の大軍であった。    
 安禄山に率いられた反乱軍は、無人の野を行くように軽々と進撃を続け、1か月後の12月、たちまち東の都洛陽を占領し、その勢いで首都長安(西安)に迫ってきたのである。そして、長安を守る最後のとりで道関(どうかん)も、約半年持ちこたえたあげくに、あえなく陥落してしまった。こうなれば、長安に反乱軍がなだれ込んでくるのは、時間の問題であった。    
   かくして、血に飢えて殺気だった反乱軍が侵入してきて、略奪と殺りくを始める前に、恐怖におびえた玄宗は、6月13日の深夜、楊貴妃らを引き連れて、密かに長安を脱出したのである。    
 翌14日、疲弊した一行がなんとか渭水(いすい)川の北岸にある馬塊(ばかい)という宿場町まで到着した時、悲劇は起こった。もともと揚国忠の横暴を恨んでおり、この度の反乱の責任が揚一族にあると考えていた兵士らは、食料を求めて揚国忠に押し問答していた最中、些細な事から一気に兵士たちの不満が爆発したのである。  
   彼らの目指すのは、はるか南方にある蜀(四川省)の都、成都であった。成都は楊貴妃のふるさとでもあった。しかし、成都までの道のりは遠く険しいものでもあった。最初の夜から、将来を悲観した脱落者、脱走者が後を絶たなかった。しかも、食料も水もなく、休む時は、貴賎の区別なくそのへんに雑魚寝をするしかない有り様だったのである。    
 

 揚国忠は、逃げようとしたが、飢えて怒り狂った兵士らに取り囲まれ、一瞬のうちに首をはねられて、手足はバラバラにされてしまったのである。そうして、揚国忠の首は槍で串刺しにされて馬塊駅の門の前にさらされた。

 
   揚国忠を八つ裂きにしても、彼らの怒りはおさまることを知らず、揚一族を似たようなやり方で次々と血祭りに上げていった。楊貴妃の3人の姉も惨たらしい最後を迎えた。そして、最後に一族の中で、楊貴妃一人が残された。興奮して殺気だった民衆は、楊貴妃を渡せとばかりに玄宗の居所を取り囲んでいた。玄宗の耳には、楊貴妃を殺せとわめく怒り狂った民衆の怒濤のような雄叫び声が響き渡っていた。もはや、楊貴妃を渡さねば、皇帝とて彼らのえじきになることは明らかであった。そこら中、血の匂いでむせ返っていた。    
   玄宗は、悩み抜いたあげくに楊貴妃に死を命じた。偉大な唐の王室を守るため、玄宗にとっては、楊貴妃の命と引き換えに、死よりも辛い決定を下さねばならなかったのである。この玄宗の非情な命令に、楊貴妃はいかなる言葉も返すことはなかったという。    

 近くの仏堂の中で、揚貴妃は、宦官の高力士によって絹で首を絞められて殺された。こうして、楊貴妃の愛と波乱に満ちた38年間は終わりを告げたのである。思えば、十数年前、自分を見い出してくれた人間の手によって殺されることになろうとは、なんという運命のいたずらであろうか。

   
   楊貴妃の遺体は、検死のため馬塊の駅前にある広場に運ばれた。玄宗の悲しみは、例えようもなく、顔をおおったままで、時おり楊貴妃の遺体を振り返る彼の目には、血の混じったような涙が止めどもなく流れ落ちていたという。    
   やがて、楊貴妃の亡がらは、馬塊の町から遠くない道ばたに埋められた。    
   その後、退位して政治の表舞台から退いた玄宗は、戦乱で完膚なきまでに荒廃した長安に帰還したが、道ばたに適当に埋められた楊貴妃が哀れでならず、墓の改葬を何度も望んでいた。しかし、周囲の反対からそれは果たすことは出来ずにいた。止む終えず、彼は密かに命令を出し、馬塊の荒涼とした道ばたから別な所に改葬させたのであった。その際、改葬を済ませた玄宗の部下は、遺体が身につけていた匂い袋を持ち帰ったのであった。    
 やがて、幽閉同然となった玄宗は、楊貴妃の唯一の遺品となった匂い袋を手にしては、生前の彼女との様々な想いを巡らしては、一人哀しみに耐える毎日であった。自分の居室に楊貴妃のすがたを描かせては、朝に夕に絵の中の彼女と無言の対面を続ける毎日であったという。そうして、玄宗はろうそくの炎が消えるごとく、眠るように崩御したのである。

 

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